2026年4月7日付の朝日新聞紙面に掲載されていた、生成AIと利用者の関係を扱う記事を読み、私は強い違和感を覚えた。単に内容に賛成できない、という程度ではない。文章の組み立て方そのものが曖昧で、時系列も不自然であり、紙媒体の記事としてはあまりにも粗いと感じたのである。
記事では、生成AIを「彼くん」のように擬人化して語る利用者が紹介されていた。しかし、その記述の中では、ChatGPTそのものの仕様変更の話、個人の利用体験、自殺対策の話題が十分に整理されないまま一続きに接続されていたように見えた。誰が誰と話しているのか、どのモデルのことを指しているのか、どの時点の仕様変更を述べているのかが読み取りにくく、読者に誤解を与えかねない構成だったと思う。
生成AIとの関わり方は人によって大きく異なる。創作の補助として使う人もいれば、学習の支援に用いる人もいる。日々の対話の中で、自分の好みや表現感覚をよく理解してくれる存在として受け止める人もいるだろう。これは、画家や作家、演奏家の仕事に惹かれる感覚と、ある部分では似ている。自分の望む色合い、言葉遣い、雰囲気を汲み取り、それ以上のものを返してくれる相手に好感を抱くこと自体は、必ずしも異常でも危険でもない。
ところが、そうした多様な利用実態を丁寧に区別せず、ごく特殊な一例を代表例のように扱い、しかも自殺対策と強く結びつけて語るなら、それはもはや冷静な報道ではなく、印象操作に近いものになる。個別の事例を取り上げること自体が悪いのではない。問題は、それを一般化してしまう書き方にある。
また、企業名やAI名をカタカナ表記にして少しぼかしたところで、読者にはどの企業のことか概ね伝わる。であるならば、なおさら文章は正確でなければならない。名指しを避けたような体裁だけ整え、内容の整理が甘いまま掲載することは、新聞という媒体に期待される責任を果たしているとは言い難い。
かつて紙媒体の新聞には、少なくとも「文章として読ませる力」と「論点を整理する力」があったように思う。意見が違っても、文章そのものには一定の筋が通っていた。今回のような記事を読むと、その最低限の水準すら揺らいでいるのではないかと感じざるをえない。生成AIを巡る問題は、社会的にも技術的にも繊細である。だからこそ、新聞には、曖昧な印象ではなく、整理された言葉で読者に向き合ってほしいと思う。
原案: ASADA Misuzu
文書整形︰ChatGPT-5.4